コンビニ人間 / 村田沙耶香
「私」の人生は、
「私の人生」ではないのだな、と思う。
では誰のものかといえば、親だったり、きょうだいだったり、友達、恋人や配偶者、わが子、同僚に上司、あるいは無関係の人物、つまり社会のものである。痛いほどそう感じる。
所狭しと人がひしめく社会のなかで生きるということは、「平均」を保たなければいけないということ。逸脱すれば、変な人として爪弾きにされる。それを嫌うか、無いものとして気にせず暮らすか。我々にできることは二つに一つ。
「平均」に身を委ねているのが安心する人のほうが、世の中には多いと思う。たとえそれが根底では意に反することでも、そうすることで人間として全うに暮らせている(と周りに思わせられる)のであれば、そうするほかない。
しかしそれ以外の、自分は枠組みのなかにいるのだと意識することもできず、世のありのままを受け入れて就職し結婚し子供を作る人が、おそらく一番多い。そしてそれが一番幸せなのだと思う。
僕としては、コンビニ人間・古倉恵子の葛藤を見て、自分のなかのもやもやの輪郭をはっきりさせられた。つまり「平均」でいることの苦しさを思い出させられた。
それでも雑多で俗なもの――仕事や恋愛やいろんなときめき――をある程度ありのまま受容しながら日々を生きているという点では、彼女からはほど遠い。古倉さんは、はっきり言って常軌を逸している。
彼女は幼少期から「平均」を受け入れられる「普通」の人間ではなかったが、現実社会でも存在するであろうそういう人たちも、年を重ね社会に揉まれるうちに、ある程度は俗世に染まっていくはずだ。
彼女の場合は、社会と自分の差異に敏感になりすぎていると思う。どれだけうんうん考えても社会の「平均」が理解できないのだから仕方ないことではあるが、にしたって、己が己であることに意固地になってしまっている。
そこへ加えて、18年間も同じコンビニでアルバイトを続けていたことにより、体も心もコンビニだけのために仕上がってしまい、もう後戻りができなくなった。――それを、思わず悲劇のように捉えてしまうが、それが彼女自身にとっては自然な形なのであれば、「平均」を強制できる資格など誰にもない。
まあ、でも、古倉さんのような人は社会にきっといるだろう。
白羽さんは袋小路という感じがした。が、古倉さんの場合はまたちょっと違って、ある意味では袋小路なのかもしれないけど、それは客観的かつ一般的に見たうえでというだけで、本人はあんがい幸せなのかなあ。
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