向日葵の咲かない夏 / 道尾秀介
「罪」と「赦し」。
子供はときに残酷だ――ということをよく言うが、その残酷さを作りあげるのは、多くの場合は親なのではないかと思う。
すべての出発は、子供の些細ないたずら心。それが「罪」になる。
それは厳密には「罪」ではないかもしれず、捉えようによっては「罪」たりえるかもしれない、という類のものではあるが、確実に「罪」と断定するのは、きっと親である。
「そんなことしちゃいけません」程度のものであれば、それは躾と呼べるかもしれない。それがどんなに悪い「罪」であったとしても。
しかし「お前のその罪をわたしは赦さない」という態度になると、たちまち子供は心を閉ざすものである。
ミチオ少年が「赦し」を乞うのは、まさにその親であるべきだったが、そうはいかなかった。
だから彼は内に向かった。
そこに歪みがあったとしても、彼は確かにそれで救われていた。己の残酷さにも目をつぶることができた。
物語の軸となる、S君の首吊りと、消えたその死体。
はたして彼は自殺だったのか、そして誰が何のために死体を移動させたのか。ここにミステリとしての醍醐味がある。
が、その実、事件は複雑怪奇で、ミチオの内省を邪魔するものとなる。
ただそれも仕方のないことで、ミチオの心そのものがぐにゃぐにゃに捻じ曲げられてしまっていたのだから。
事態は進んでいるようで進んでいない。
逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい逃げたい
という切ない叫びが、読後の耳の中でわんわん鳴っている。
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