その可能性はすでに考えた / 井上真偽

その可能性はすでに考えた。


――明晰で、だれよりも先回りして考えを巡らすことができる反面、気障で食えないところが燗に障るようなインテリ野郎が、凡夫を見下しながら得意げに、あるいは何食わぬ顔で発する台詞、のように見える。

その評価はあながち間違いではない。
が、読後この台詞を改めて見直すと、とある一人の探偵の、人生の悲哀を感じずにはいられない。

「その可能性はすでに考えた」という言葉には、「だが否定せねばなるまい」という下の句が付く。
探偵の寂しそうなニュアンスを乗せて。



全体を通してみると、非常に軽妙である。
持って回った、装飾だらけな表現が多いにもかかわらず、実に軽妙痛快な空気のただよう作品である。

探偵・上苙丞<うえおろじょう>ののらりくらりとした佇まいは元より、彼の助手めいた立場に強引にねじ込まれる形の姚扶琳<ヤオフーリン>という女性が、その軽妙さに拍車をかけている。
彼女が中国人の元拷問人で、容姿端麗かつ長身でプロポーション抜群、中国なまりの日本語を操り、ときには中国語も混ぜ、基本的に悪態をついているから、というキャラクタライズされた人物なのもそうだし(これは同じく探偵にもいえる)、語りの視点が彼女に置かれていることにもよるだろう。読者は常に扶琳と共にある。
彼ら二人と、その他の現実離れした曲者たちが、作品をフィクションとしていっそう際立たせている。


それに反して、探偵が否定するべき、過去の惨劇で起きたであろう「可能性」は、すべて現実的で物理法則に裏付けされたものでなければならないし、どんな些細な気持ちの機微も見落とし不可である。解明するのは、身近にある自然、または人間が知恵と工夫で作りうるはずの道具の数々という、想像に難くないものたちで起こった事件である。
このあたりは全うなミステリとしての体裁を保っているので、突拍子のないファンタジーが始まるようなことはなく、読んでいて安心感がある。


だが探偵は「奇蹟」を信じている。まず前提がそこにある。
だからこそ「可能性」をいちいち否定していく。 そして、だからこその痛快さである。

なので、というか、しかし、残念ながら読んでいると、上苙丞という探偵の「奇蹟」を信じる気持ちを応援し、あらゆる「可能性」をつぶしてやれという気持ちになってはいかない。読み手は探偵の思いに逆らうことになる。
われわれは現実世界に生きているので、どう足掻こうとも、現実で起こりうる悲劇しか期待できない。どんなに現実離れした状況であろうとも、そこには必ず、何らかのトリックがあったのだと信じたい。
それがミステリの醍醐味だ。

探偵が「可能性」をひとつひとつ丁寧に否定していくとき、ある意味では痛快であるのと同時に、「じゃあそれ以上に、どんな想像もつかないトリックがあったんだろうか?」と、自然と真相のハードルが上がっていく。
この、探偵と読者の気持ちの乖離がなかなかに絶妙で面白い。探偵はいわば敵役なのだ。
これまであったミステリとは趣がちがう。


さて、章ごとには大仰な推理対決が繰り広げられるが、それらすべては、探偵の「奇蹟の証明」を実現したいという思いから生じている。
物語後半で、ではなぜ探偵は「奇蹟」の存在を信じているのか、を読み手は知る。序盤でも少し仄めかされていた過去の因縁が明らかになるところだ。
ここに悲哀がある。

その可能性はすでに考えた、だが否定せねばなるまい。――残念ながら。
探偵の寂しそうな顔が浮かぶ。



すべての真相が明らかになったとき、トリックは実はそこまで複雑なものではなかった。

だが。
探偵の過去にしろ、当該事件の子細にしろ、根底を貫いているのは「母と子」というシンプルながらも太い一本線であるように思う。
また、「奇蹟」であったか否かにかかわらず、探偵が語ったストーリーには優しさがある。
つまるところこの事件の屋台骨を支えていたのは、人の悪意ではなく善意だったのかもしれないという「可能性」が、読後感を爽やかにしてくれる。

その人の善意こそが「奇蹟」なのかもしれない、という思いも少なからず湧き出てくる。胡散臭さも含みがちな宗教というものも、元はだれかを救いたいという気持ちから来ているんだよなあ、ということをぼんやり考えた。

本とか

主に読書感想文、たまに思ったこと。

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