怒り / 吉田修一

人を信じることは難しい。
その理由は大小ある。

大きなもの――たとえば何か事件に巻き込まれたり、セクシャル・マイノリティーであったり、我が子が周りから浮いていたり、外交問題だったり――の場合、社会や、あるいは自分を許せなくなる。そして自分の無力さにうちひしがれる。

小さなもの――恋人の食べ方がなんかイヤとか、同僚が仕事はできるけど人付き合いはよくないとか、絶対に「でもさ」から話し始める人がいたりとか――の場合、それらは「違和感」程度のもので、ふだんは見過ごしたり見ないふりをしていることが多い。 
しかし大体において、それらは日々蓄積していっているもので、ことによっては大きな塊になる。たとえ他人にはわかってもらえない感覚だとしても、自分の中では深く根を張っている。

そういうものの集合体が、他者への疑念につながる。信じたいのに、ひとたび疑う心が芽生えると、信じたいと思えば思うほどに信じられなくなる。「そういえばあの時あいつ、あんなこと言ってたよな。てことは……」という風に考えてしまう。
いや、「信じたい」と思うからこそ、「いま自分は信じていないんだ」と確信することになる。しまいには、信じられない自分のことすらも嫌になってくる。



この物語は、八王子で起きた夫婦殺害事件で幕を開ける。
犯人は山神一也、というところまではわかっているが、犯行後の足取りがつかめない。事件発生から一年以上経っても、彼が、いま、どこで、何をしているのかわからず、警察は手を焼いている。名を変え、顔を変えて潜伏していることは明らかである。

同時期に、日本の三ヶ所で身元不明の男が現れる。刑事には知り得ぬことだが、読者には「このうちの誰かが山神なのか?」と思わせる書き方がされており、本筋としてはミステリの体がある。
が、それぞれの人間模様が濃く描写されるので、どちらかというとそこにあるドラマ、もっといえば、「人を信じるとは?」に焦点が合っていく。そしてそこには人々の心の痛みがある。



中でも個人的に最も痛みを感じたのが、千葉の洋平・愛子父娘の部分だった。

幼少期に「他の子からちょっと遅れている」といわれた愛子。やがて妻と死別するも、洋平は我が子を大事に大事に育ててきた。親戚も手伝ってくれている。
そこに現れた田代と名乗る身元不明の男。しだいに心惹かれ合っていく愛子と田代。
テレビでは、殺人犯の指名手配写真と特徴が放送される。もしや田代の奴――

ここで洋平特有だったのが、田代を殺人犯かもしれないと疑う理由が、放送された写真や特徴からだけではなく、「娘が選んだ男だから」という点だ。
愛子は幸せにはなれない子なのかもしれない。そりゃあ大切な娘だが、周りとちょっとちがうということもあり、それなりに苦労させられてきた。もちろんそれでも愛している。が、しかし、本当の意味でこの子が幸せになるということなんてないんじゃないか。
洋平の葛藤は、子を持たない僕でさえも大きな痛みを感じさせるものだった。我が子を信じられない親の気持ち、そしてそれを自覚してしまったときの気持ちは、とても言葉では表せられないだろう。

「親子だから嘘もついてきた」というような描写があった。なんてことのない一行だったが、これが妙に引っかかった。そんなことはない、でなく、そうかもしれない、という意味で。
もちろん悪意のある嘘ではない。お互いを大切に思うからこそつく小さな嘘が、日常にはあふれている。そういうものの積み重ねが、やがて取り返しのつかない結果につながるのかもしれないと思った。



他の人々の描写にも、それぞれの痛々しさがあった。
ジェンダーについて声高に叫ばれるようになった現代でも、優馬の抱える問題は根深いものがある。
辰哉の父が日々闘っている沖縄の米軍基地問題は、「国」という絶対的な力が行く手を阻んでいる。
しかし、当事者でない者にとっては対岸の火事でしかない。それは悲しいことだし、親身になろうとしてもなりきれない自分に憤りもする。

だが日常の人間関係には、気づかないところで問題が山積している。それは、他の人々が抱える大きな問題に比べたら些細なことでも、自分にとってはいつか日常を凌駕しうるものかもしれない。そういうものを、単に「違和感」で処理していいものかどうか。

本とか

主に読書感想文、たまに思ったこと。

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