母性 / 湊かなえ
この世に存在するすべてのすれ違いが、アンジャッシュのコントだったらいいのになあ。
人を思う気持ち、人を憎む気持ち、そしてその理由など、僕たちは自分の胸のうちに抱えているそれらのことを、ぜんぶ正確に伝えることができない。なぜかと言うと、また別の、人を思う気持ち、人を憎む気持ちに阻まれているからだ。
よかれと思って言ってしまう、ということもあれば、よかれと思って黙っている、もある。
黙っていれば波風が立たないから、もある。
黙っていれば、苦しむのは自分だけで済むから、ということもある。おそらく、これがいちばんつらい。
それらが周囲に曲解され、事が、考えうるかぎり最悪の方向に進み、最後は袋小路、ということが日常にはたくさんあるのではないだろうか。
自分がした善行を親が喜んでくれたら、それは当然うれしい。だからまた親が喜んでくれるように振る舞うようになる、という心理もよくわかる。
では、自分の子供に対してそれと同じ心理を求めるのは、親心か、それともエゴか。
『母性』の中で湊かなえが書いている女性は、おひさまのようだと母に言われてきた人物だ。
やや打算的なところはあるにせよ、母を喜ばせたいという思い自体は本物で、それがゆえに大切に大切に育てられてきた。汚い言葉づかいを嫌い、「かわいそうな子」には手を差しのべてやり、率先して人の嫌がることをする、まさに「いい子」。
この時点でアレルギー反応を起こす人はいるかもしれないが、誰かに迷惑をかけているわけではないし、何より母親はそれを喜んでいるのだから、決して非難されるようなことではない。
ただ、行き過ぎたのかもしれない。
彼女の人生はすべて、母のために、が原動力となってしまった。それが当然となってしまった。だから娘にもそれを求めてしまうことになった。
「娘を大切に育ててきた」とのたまう彼女に、神父は、「それはなぜか」と問う。シンプルだが核心を突かれる問いだ。
僕は子を持つ親ではないが、仮にこう問われたとして、何と答えるか。わからない。もし女性だったら、「自分のお腹を痛めて生んだ子だからです」と答えるだろうか。しかしそれに対しても「なぜ?」が返ってきたらどうするだろう。
親だって人間だ。それまで生きてきた中で養われた知識や感性が、多分に子育てに影響を与えるだろう、というのは想像に難くない。
しかし、子供は親の分身ではない。他人だ。私だったらこういうときこうするのに、どうしてこの子はちがうのかしら?などと考えるのは危険。
僕も、けっこう親や周りから褒められて育ったほうだと思うが、行き過ぎてはいなかった。
また人生の中で、特別ひどい目に遭ったこともない。対してこの作中では、主に家庭内における、目を覆いたくなるような事実がどんどん出てくるが、それは決してファンタジーではなく、世界のどこかで現実に起こっていることにちがいないと思う。
こう考えると自分は、バランスよく恵まれた環境で育ってきたのだろうと思う。それはひとえに、親の育て方に依るものだと言っていいはずだ。もちろん成人してから形作られた感覚なども大いにあるが、それすらも、幼少期に形作られたものを基礎としているような気がする。
たくさん褒められて育った人間は、脆い。
というようなことを途中途中で書いてきたけど、読み終えるとすっげー面白かったー!というシンプルな感想。
母性とは何か。
女とは何か。
「嘘松」なんて言葉も思い浮かんだ。
自分の思ってることだけを伝えたいから、すれ違っちゃうのかもしれないなあ。
めんどくせーけど、女性というのは愛おしい生き物でやんすね。
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