スクラップ・アンド・ビルド / 羽田圭介
生きることは死ぬことだなあ、と思う。死ぬために生きているというか。よりよい死に方を探りながら生きているというか。
死に方ではなく、老い方と言い替えたほうがいいか。
健斗が『スクラップ・アンド・ビルド』の作中中盤から始める筋トレは、確実に老いて衰えゆく体にとっては、何の意味があるかわからない。まだ若い彼は、祖父を反面教師にし、絶対にああはならないと心に決めて日々鍛錬を続ける。それによって怠惰な生活が一変し、以前より活力が湧くが、しかし、そんな彼も、残念ながらいつかは必ず死ぬ。
冷静に考えると彼の行動は矛盾しているように思えるが、いま、生きている我々にとって、それはごくありふれた、生きるための所作である。筋トレも、仕事も、趣味も恋愛も、いつか死ぬのにやっている。なぜなら「生きたい」から。
彼の祖父が日々発する「死にたい」「じいちゃんなんかはよう死んだらよか」という言葉。健斗はそれを、一瞬の痛み苦しみすらも味わわず、いっとう楽に絶命したい、という甘えから来ているものだと判断する。そこから、彼自身が考えた――というより決めつけた――祖父にとって一番の「尊厳死」を実現させるために立ち上がる。
(そういえば、先日読んだ川上弘美の『某』にも、尊厳死の話が出てきた。超高齢化社会の現代において、これは最もホットなトピックのひとつなのだろう。)
このあたりの展開は、少し落語っぽい手ざわり。切実ながらもどこかズレていて、しかし心から馬鹿にはできないというバランス感覚。羽田圭介氏の語り口がとても笑える。
祖父の「死にたい」もまた、「生きたい」である、と思う。それも、できれば楽しく生きたい。充実して生きたい。できることなら死にたくなんかない。死ぬなら楽に。そして楽に死ぬために、周りのみなさん、この哀れな老人に、どうか手を差しのべてください。である。
というのが表層的に読みとれることで、実のところ祖父が何を考え、そのつまらない日々を過ごしているのかはわからなかった。健斗もそうだろう。羽田氏もそうなんではないか。
いまいえるのは、ただ老いてゆくだけの人生にはしたくないな、ということ。何のひねりもないが、それでしかない。
壊して、作り直す。筋肉にそうするように、思想や環境や、人間関係さえも。その繰り返しの中で、僕たちはゆっくり死んでゆく。
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