ミイラ展の感想
国立科学博物館で、特別展 ミイラ「永遠の命」を求めてを見てきた。まどろっこしいのでミイラ展と言う。もともとミイラに深い興味があったわけではないのだが、誘われて、そしてホームページを見るとなかなかおもしろそうだったので行くことにした。
結果、とてもおもしろかった。古今東西さまざまなタイプ、状態、大きさのミイラが展示してあった。ミイラの現物は初めて見たのだが、思っていたより怖さや気持ち悪さはなく、皮膚が石や木のようになっているためか化石のようで、「死体」というより「史料」を見ている感覚になった。
ひとつ衝撃だったのは、多くのミイラに髪の毛が残っていたということ。白骨化した場合とちがって頭皮が残るんだからそりゃ髪の毛が残るのも当然だろう、と冷静に考えれば分かることだが、実物を目の当たりにすると、かなり来るものがある。「それ」が「かつて生きていた」ということをありありと感じた。
ミイラは、自然にできたものと人工的に作られたものに分けられる。自然にミイラになるのは奇跡に近いらしい。保存状態や気候、時間などが大きく関わってくるからだ。そのため大体の場合はある程度破損しているが、ほぼ完全に人間の状態を保ったままのものが何体か展示されていて感動した。
――どうして感動するんだろう、とふと思う。史料とはいえやっぱりそれは死体にはちがいなくて、きれいに残っているからなんだというのか。しかも全く知らない人だ。大昔の。ああ、でも知らない人だから純粋に朽ちた肉体として見られるのか。それで感動するんだな。…いや、だからそれはなぜ?
なんだか捉えどころのない不思議な感覚になった。
人工的に作られたミイラ(人工ミイラ)についてはかなり整理した頭で見られた。ミイラと聞いて多くの人が真っ先に思い浮かべるのが、エジプトのミイラだろう。エジプトでは、死んだ人の魂は鳥の姿となって飛んでゆき、再び同じ肉体に戻ってくるという考え方があるらしい。そのときに肉体がその人のものだと分かるように、ミイラを作る風習が生まれたようだ。その中で、ミイラ作りの技術は長い年月をかけてしだいに洗練されてゆき、かつ量産されたため、世界的に有名になったのではないかと思う。
ジャッカルの頭を持つアヌビスという神がいる。古代エジプトでは、ミイラ職人はこのアヌビスのマスクをかぶった状態でミイラを作ったという。70日間もかけて。ミイラ展ではこの様子をCGアニメーションで再現してモニターに映していたが、かなりシュールな画だった。犬頭の人間が、当然だが表情ひとつ変えず、死体の腹を裂いたり鼻の穴から脳みそを搔き出したりしているのだ。そのマスクがなにでできていたのかは知らないが、絶対に暑いし、たぶん重いし、ミイラ作りにはかなり邪魔だったと思う。が、当時の人々からしたらこれには確かに意味があったのだ。ある種の儀式であり、つまり葬式である。古代エジプトにおいてはこれが普通の弔い方だったのだ。
棺や副葬品もいくつか展示してあった。棺は、外も中も神々の絵やカラフルな柄がびっしりと描かれていた。副葬品の中には、動物を模した小さなアミュレット(護符という意味らしいが、ピンバッジのようなもの)などがあって、オシャレでかわいいアクセサリーという感じだった。入れ物も飾りも、かなりにぎやか。このことから、エジプト人、ちょっとミイラ作り楽しんでんなと思った。
前からうすうす思っていたことだが、ミイラ作りを含む「弔い」というものが、死人のためというよりも、遺された人のためのものだということである。供養することによって心が平穏になるのだ。供養の方法はさまざまで、ミイラにしたり、ジャッカルのマスクをかぶったり、かわいい動物のアクセサリーを一緒に埋葬したり。少し前に、死んだ飼い猫をラジコンヘリに改造した人が話題になったが、あれも同じだと思う。嫌悪する人が一定数いたとしても、その人やその文化圏の中ではいちばん合理的なやり方なのだろう。
今回おもしろかったのは、エジプトをはじめ世界各地にある人工ミイラの文化は、ほぼ「やがてこの肉体に魂が戻ってこられるように」という考え方に基づいているということ。たしかパプアニューギニアのある部族だったと思うが、誰かが死んだら、その家族が自らの手で、時間をかけてその人をミイラにしていくという文化を持っていた。小屋の中で火を燃やして、その上に裸の死体を吊るして燻すのだ。これは実際の映像が見られた。なかなか気の引ける光景だったが、これも要は同じ考え方だ。魂が再び宿るように。しかもこちらの場合は、家族がやることによって手厚さが増しているように思う。もし本当に戻れるのであれば、魂もこの方が戻りやすい感じがした。また、弔った方も「自分の手で弔った!」と思いやすいかもしれない。
死生観っておもしろい。やっぱり生命に関することがこの世でいちばんおもしろいんじゃなかろうか。そして「どう死ぬか」は「どう生きるか」で、「どう生きるか」は「どう死ぬか」だ。
ただ、まだ僕は死に方や弔われ方を詳しくは考えられない。しかし仮にもし僕が死んだとき、そして幸福なことに誰か悲しんでくれる人がいるのなら、その人の心が平穏になる方法で弔ってほしいと思う。ミイラにもラジコンヘリにもしてくれればいいさ。誰も悲しまない場合は肉食動物の栄養になりたい。
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