生活と文
生活の中で心が壊れそうになってしまったとき、全く知らない人物の書いた文章を読むことが、こんなに救いになるなんて知らなかった。
知っていたのかもしれない。だからこそ読むに至ったのだ。好きな作家ではなく、ベストセラーのエッセイでもなく、人に薦められた名作でもなく、今まで触れることのなかった人の文章が、狭まっていた世界をこじ開けてくれた。古本屋よありがとう。選んで購入してくれた自分よありがとう。
「もし近い将来、あるいは遠い未来、俺が先に死んだら、俺の葬式に来てよ。君が先なら、君の葬式に行くから。」
そんな、ちょっとかっこつけた別れの台詞なんぞをすんなり思いついてしまうほどに、心がすうっと落ち着いていった。それがかっこいいかは分からないが。それを落ち着いたと表現するのが正しいのかも分からないが。
文章は人生だと思う。人間だと思う。生活で、肉体で、体温だと思う。
人がわざわざ何かを書こうと思って、あるいはペンを走らせ、あるいはキーボードを叩く。手書きの場合は紙と文房具を用意しないといけないし、デジタルならPCを起動しなければならない。そういうちょっとした手間を乗り越えて、文字と文字をつなげていく作業。その日のコンディションによっては重労働にもなりうる作業。人をそう動かしめるに至った思いというものは、筆跡やインクから確実に滲む。
かく言う僕も、今こうしてキーボードを叩いている。ちょっと大変かも、と思いながら。
人は、何をどうしたくて文章を書くのだろう。気持ちの整理のため?愛の告白のため?己の文才を世間に見せびらかしたいがため?過去の傷や失敗を笑いに変換することで、同じような経験をした人の救いになるため?仕事のため?
どんな思いであっても、思いは思いで、書いてどこかに公開すれば、残る。その人がそう思ったという事実が残る。
それを読む。この人は生きたんだなあ、と思える。読めて、何かしらを感じている自分は生きているんだなあ、と思える。たまらない気持ちになる。
そうして、自分も書く。直接的ではないにしても、知らない人とつながれたような気持ちになる。ひとりじゃないと気づく。言葉で表現できることの幸せを嚙みしめる。もやが晴れる予感がする。
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