『緑風館』について、説明の説明
『緑風館』という曲ができた。
僕は日頃、趣味で曲を作っている。最近では、出演した舞台のことを思って一曲書くということも増えてきた。
出来に関しては、まあ、いろいろ。でも趣味だからいいんだ、という軽いノリでやっている。
この曲は、この8月初旬に出演させてもらった、あやめ十八番『六英花 朽葉』に寄せて歌詞を書いた。タイトルは、劇中に登場した映画館の名前。
今回は作曲は自分ではなく、あやめ十八番の専属音楽監督であるところの吉田能というひとりの天才に、すべてを委ねた。
あくまでも遊びの範疇だけど、お互い真剣に遊んだ結果、いいなぁ……と思えるものができあがったと思う。
吉田くんに心より感謝。
さて。
この曲の歌詞を書くときに、何をいちばん大事にしたいかなーと考えていたときのこと。
一応簡単に『六英花 朽葉』という作品に触れておく。
舞台は大正から昭和初期にかけての日本。映画が活動写真からトーキーに移行していく激動の時代を、活動写真弁士(活弁士)たちはどう生きたか、というお話。
僕はこの作品、すごく好き。
で、歌詞である。
劇中にも出てきたように、どうやら「活弁士」を「映画説明者」という呼び名に変えていこうという動きが歴史上あったらしい。
スター扱いされている活弁士を世間から排除してやろう、だってこれからはトーキーの時代なんだぜ、という大いなる流れが一因になっていたとのこと。実際のところは定かではないにしろ、とにかく劇中ではそう語られた。
で、思った。活弁・弁士という響きもそりゃあ粋でかっこいいけど、いや待てよと。映画を「説明する」っていうのもなかなかに渋いではないかと。
現代はもはや、AIに全ての仕事が取って替わられようとしている。「説明」なんて格好の餌食だ。
YouTubeを観ていると、AIがナレーションをやるCMが日に日に増えていく。いちナレーターとして、僕も戦々恐々とした日々を送っている。
だけれども。
人間がやるからいいんじゃないの、と思うわけです。
温度というか、熱量というか、あたたかみというか、そういうのは散々言い尽くされてきた陳腐な理由かもしれないけれど、でも結局、人間にできるのはそれしかないはず。
その人の、声や、体や、生きてきた過程があって、それらがまるごと言葉に乗るから、観客・視聴者にはズドンと届くもんがあるんではないかと。
一見堅苦しい印象のある【説明】も、そういう目線で見ればべらぼうにかっこいい。
映画説明も、俳優の台詞も、ナレーションも、落語や講談も、YouTubeの解説動画も、ゲーム実況も、全部ひとりの人間が必死に【説明】をやっているからこその良さ。
ただし大事なのは、その【説明】は、とある物語や物事を伝える手段であって、実は主役は人ではないということ。あくまでも滅私。
なんだけど、その人が真剣なほど、どうしたってその人らしさが乗ってしまう。
だから逆説的に、物事を【説明】することは「私はここにいますよー!」の【説明】になっていく。で、だからこそ、その人にファンが付く。
……ということなんではないかと思い、【説明】をとっても大事な言葉として扱うことにした。
「一番大事なのは作品で、私の気配をなるべく消してはいますけれども、どうしたって私という人間はにじみ出てしまうのです。」
これは奇しくも、劇中では衝突していた木蘭・朽葉兄妹ふたりの視点を合わせた考え方になった。
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