おいしすぎるものへの、怒り

えまってむり、という定型文について、折にふれ「は?」と思うことがある。


「え」はわかる。人の気を引こうという音だ。

「まって」も、まあわかる。相手に待ってもらうことで、一定の間、自分の持ち時間にしようとしている。しかも漢字を使って「待って」と表記せず「まって」とすることで、やわらかい印象を与えることにも成功している。たとえその待ち時間に価値があろうがなかろうが。

加えて「え」と「まって」は、短い言葉にもかかわらずお互いを補い合い、自分に注意を向けることを強調している。


じゃあ、「むり」はどうか。
意味としては「無理」。これもひらがなでやわらかくしている。
でも「無理」とは、いかなる意味?

同列の言葉として「尊い」があると思う。自分の萌えるツボを押さえたなにがしかにふれたとき、「尊い」と言う。
ブーストがかかると「尊すぎて死ぬ」ことになる。よいものが度を越すと、自分を死に至らしめるほどの殺傷力をもつという意味である。
よすぎたとしても実際に死ぬことはないし、現に死んではいないのだから(死んだら感情表現はできないので)、まあ、ものすごい賛辞を、冗談まじりに表しているということなのだろう。 


「むり」も、まあそうか。
よすぎて、まぶしすぎて、自分なんぞがそれを摂取してしまうと消え去ってしまうほどの威力をもつ。あるいは、摂取したときに、うれしすぎて、テンションが上がりすぎて、自分の状態が目もあてられないものになってしまう。このどちらかか、もしくはどちらもか。
もしもそれ以外の意味があったら、純粋に知りたい。


そういえば僕はおいしすぎるものを実際に口にしたとき、満面の笑みにはならず、むしろしかめっ面で、「こんなにうまいものがあるなんて信じられない」という怒りの感情に支配されることがある。
おいしさを噛みしめているという側面もあるが、自分で思い返してみると、それだけではなく、はっきりと「怒り」があるように思う。
この感情の動きは正直自分でもあまり分析しきれてはいないのだけれど、事実そうなるのだから、「むり」に関しても否定はできない。


度を越すと逆のことを言う、というのは昔からある。「やばい」なんかがそうかもしれない。そもそもが裏稼業の言葉らしいが、危ないとか、よくないことについて言っていた言葉が、今やその使い方はそのままに、よすぎるときにも使うようになっている。


僕が「は?」と思うのは、その意味がどうということではなくて、半ば定型化した文章が、その人があまりそこまで気持ちが高ぶっていないタイミングにもかかわらず、自然と使われていることに関してなんだと思う。
流行り言葉というのは、一時の共通言語としては強い力をもつが、なんとなく、そのときの自分の感情に嘘をついて、つまり「盛って」表現してしまう恐ろしさがあるように感じる。

そんなことを思ってしまうのは、自分がおじさんになったことの証明のようで、ちょっとさみしい。定型文を使う若い女の子たち、まぶしすぎて、むり。

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