「痛み」に関する、深夜の世迷言

演劇には痛みが必要だ、と言った人がいた。
女にもてたくて、みんなからちやほやされたくて、そういうチャラついた欲求から演劇をはじめた20代の僕には、その意味がまったくわからなかった。

白状すると、僕は学生の頃からある程度はもてたし、ちやほやもされてきた。人並みより少し上、それが僕の立ち位置。それが当たり前だった。ぬるま湯だった。
その人の言う「痛み」が具体的にどういうものなのか、そのときちゃんと理解はできなかったけれど、なんとなく、僕の当たり前とは対極にあるものなのかもしれないとそのとき瞬時に悟ってはいた。
少なくとも身体的な痛みではない。心の傷のようなものなのだろうと。そこに、寄り添う、という形で演劇が――ひいては「表現」というものが存在しているべきだ、もしくは存在していてほしい。その人はそう願ったのだろう。それは観る人だけでなく、創る側も救うものであれという意味でかもしれない。


救い。

数年後には別の人が、演劇は救いであるべきだ、と言った。その人は僕と同世代で、いま演劇の第一線で活動している。そのときの言動と現状を照らし合わせると、たしかにその活動は人々に救いをもたらしているなと思う。


3年経てば僕は40歳になる。
多いか少ないかはわからないが、それなりに苦楽を味わってきた。だからその「痛み」に関して、20代の頃に比べればわかるような気がしている。
ちやほやされたいという欲求それ自体は、スタートとして何ら問題のあるものではなかったろうといまでも思う。きっかけなんていうものはいつだって何だってくだらないことが多い。続けていくことのほうが肝心だ。そうやって続けていくなかで、目的が変わったっていい。


近ごろ読書をするようになって気づいたのが、人は文章のなかで何かを叫んでいるということだ。小説に限らず、漫画や、詩や俳句や、SNSでのつぶやきひとつとってもそう。何か自分の心のなかで起こったいいこと、悪いことを、文字にして誰かに訴えかけている。

多かれ少なかれ、人は常に救いを求めているんだと思う。わかってほしい。同じ思いを共有したい。わかってくれなくてもいい、聞いてくれるだけでいい。わたしこんなにいっしょうけんめいいきてるんだから。ねえ、わたしここにいるよ。
その叫びにふれて疲れることもしばしば。でもその対処法もわかってきた。聞きたいものだけ聞けばいいのだ。冷たく思われるかもしれない。でも聞きたいということは、いまの自分が欲しているということ。そして、逆もまた然り。ある人の痛みが、自分に近いところにあるということ。ある人の痛みは、自分からは遠くにあるということ。
そしてそれはつまり、その痛みを感じているのは自分だけではないということでもある。

人は一人ではない。そのことだけで人生はけっこう大丈夫。どんな表現も、誰かの何かに寄り添える。はず。

本とか

主に読書感想文、たまに思ったこと。

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