『うらめしブギ』所感

ホチキスvol.45『うらめしブギ』に足を運んでご観劇くださったみなさま、ありがとうございました。
誰も病気や怪我なく、最初から最後まで無事に上演できたことには感謝しかありません。

ツイキャスでざっくばらんにお話ししようかと思っていたのですが、話したいことをまとめているうちに文章のほうがよさそうな気がしてきたので、こちらにまとめることにします。


今回は、劇団の力を見せたいという思いがありました。当然、お呼びしているゲストの方々にも舞台上で輝いていただきたい気持ちはありましたが、根幹には「今のホチキスができること、やりたいことを見せる」という側面が強くあったと思います。
いつもはだいたい、劇団員が各所に配置され、いろんな角度から物語を支え、動かすことが多いです。劇団の色をまんべんなくちりばめて作品に統一感を持たせるため、というのが主なねらいです。はじめましての俳優さんもいらっしゃるので、概ね理に適ったやり方ですし、こういう劇団は珍しくないでしょう。

『うらめしブギ』は、軸に劇団員が3人据えられたことで、近年のホチキス作品とは少しちがった味わいになった気がします。冒頭に述べたとおり、劇団の力を見せたいという思いからの、米山による采配です。手前味噌のような感じにはなりますが、劇団員はそれぞれがそれぞれの尺度で、米山脚本の力を信じています。決しておごった気持ちからではなく、それが多くの人の心に届くはずだという思いがあってこそです。
時世柄、終演後にロビーでお客様のお顔を見ながら作品についてお話しする機会がないのは残念ですが、Twitterなどに書いてくださっているご感想は、なるべく読ませていただいております。もちろん、いろんなご意見があります。が、今回ある程度は、現段階でのホチキスの力を堪能していただけたのかな、という感触があります。
喉ガラガラ、体バッキバキにしながら、連日ドタバタと舞台上を駆け回ってよかったなと、素直に思います。


ここからはごく個人的なことを混ぜながら書いてみます。

僕は近ごろ、自分という人間についてあまり魅力を感じていません。でもそれは決してネガティブな意味ではないのです。ニュートラルで、フラットで、グレーな生き物だ、というような感覚です。
おそらく見る人が見れば「変なやつだな」とか「君は頭がおかしい」とか、場合によっては「面白いよ」という評価を与えられるかもしれません。その人がそう思ったのなら、きっと事実です。それとはべつに僕自身が感じる僕というのは、のっぺりとした容れ物です。
だからこそ、と思うんです。だから俳優やってんじゃないかな、と。役を演じているときは容れ物が容れ物としての力を発揮して、役名というラベルのついた生き物に変化できる感覚があります。役が“憑依”する、という表現がありますが、それとはまたちがった、“収納”している感覚。今回演じた役は、魂の宿った人形でしたが、この感じにとても近い気がします。
“憑依”ではなく“収納”なのは、動かすためにはある程度の技術が必要だからです。自分の体は自分しか操縦できませんし。車にたとえるなら、“憑依”=AT、“収納”=MT、みたいなことですかね。

ヴラド・ドラキュラは、比較的ほほえましく見守っていただけたようです。あの紳士もどきの奇人が愛されて何よりです。この容れ物にもフィットした感覚がありました。
のみならず、月岡芳年とジェニファー・ランビーとのトリオも、とても笑っていただけました。僕たちは長年一緒にやってきた間柄なので、たぶん他の人よりはリズムが合わせやすいのは事実ですが、正直、常にお互いを監視し合っていたような感じのほうが強いです。一時たりとも気は抜けませんでした。自分だけでなく、サイドカー2台も同時に運転していたような感じですね。新たな体験でした。

物語後半には、父としての目線、師としての目線が加わりました。かわいい娘と弟子を見つめていると思わず涙腺がゆるんでしまったのは加齢によるものが大きい気がしますが、相手役を担ったゲストの2人が素敵な技術と心を持った俳優だったからである、というのは言うまでもありません。
座長はまるで太陽でした。あんなに純粋で、優しくて、ひたむきで、謙虚で、勤勉な男を僕は他に知りません。彼が、彼自身の魅力で作品に光を与えてくれました。


さて、変なしゃべり方の白顔シルクハットおばけは棚に並べておくとして、容れ物にはまたちがうものを収納していこうと思います。そして舞台の上から、何かを届けますね。
そのためには何より健康であること。みなさまもどうかお元気で。

本とか

主に読書感想文、たまに思ったこと。

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