無い詞
これを歌えるってことは、こいつはそのアニメを観てたってことだよな。男のくせに?
でもなぜかそこには触れられなかった。それよりも、妙にさわやかポップな曲調と、奴がわりと楽しそうに歌い上げていたことの方が印象的だった。一度聴いただけで「どうってことないどうってことないあなたの素顔」というサビのフレーズを覚えてしまったし。
しかしなあ。俺も子供の頃、姉と一緒に流行りの魔法少女アニメを観てたっけ。とは言えそのアニメは、今や誰もが知る国民的アニメだもんなあ。曲も有名だし。
片や奴の歌ったあの曲は、あのアニメは、知ってる人の方が少ないんじゃなかろうか。俺はタイトルすら聞いたことがない。
それにこいつは男子校出身で、一人っ子だ。
こいつ、どんな奴なんだ?
俺は厨房で揚げ物をしているこいつしか知らない。そういえば仕事以外であんまり話したことないな。そもそもどうして二人でカラオケに行くことになったんだっけ?
今日は奴とシフトが同じだった。店が終わった今、俺はこっそり奴を尾けている。草木も眠る丑三つ時に、何が悲しくて野郎の足取りを追わなきゃいけないんだ。せめてかわいい女子であれよ。…それはそれで問題か。
俺の家とは逆方向に帰るんだな。シャッターの閉まった商店街を抜け、見知らぬ住宅街に差しかかる。まずいぞ、狭い路地に入った。あまり派手な動きをすると気づかれるかもしれないからな、慎重に慎重に。
抜けた先は――公園?いや、遊具も砂場もない。あるのはくたびれたベンチひとつ。空き地と言うべきか。それにしてはかなり広い敷地だな。草が伸び放題だし、原っぱという感じか?不思議なことに、周りには家が一軒もない。住宅街と路地を抜けた先にこんな場所が?ここ東京だぞ。
奴はここで立ち止まった。とにかく見つかってはまずい。なるべく路地から出ないように、体を小さくしながら見よう。幸いここには街灯もないし。……何やってんだ俺。
すると。
奴はリュックをベンチに下ろし、伸びをした。そうして深く息を吸い込み、大音量で歌い始めた。
どうってことない
どうってことない
あなたの素顔
知らぬ間に
知らぬ間に
それ見間違う
この地球で
わたしだけ気づく
あぁ不滅の日々よ
こいつ何やってんだ。そんなに大声で歌ったら近所迷惑だろ。
迷惑ではないか。周りには何もないんだ。今これを聴いてるのは俺だけだ。
何だ?練習?……この曲を?何で?何なんだこいつ。深夜に独りでわざわざこんな場所に来てまでやることか?曲調と時間帯が全く合っていない。いや、そんなことは心底どうでもいいことだが、そんなことすら気になってしまうほど奇妙な光景だ。
奴はそのままフルコーラスを歌い切ったかと思うと、何か違うなあという風に首をかしげ、また頭から歌い始めた。前奏も自分で歌っている。
俺はなんだか怖くなって、その場を後にした。
数日経ってもこの出来事は頭から離れなかった。狐にでもつままれた気分だ。厨房でポテトサラダを仕込みながら、俺は自分でも気づかないうちにあのメロディーを口ずさんでいた。
あ。今日は奴と同じシフトだった。すぐそばでカキフライを盛り付け終え、奴が話しかけてきた。
先輩それ、
ん?あぁ、何か耳に残っちゃって。
歌詞違いますよ。
え?
不滅の日々よ、じゃないですよ。
……そうだっけ?
少しの間の後、奴はカキフライをホールへ持って行った。
二日後、何の前触れもなく奴はバイトを辞めた。
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