いつか来るその時までは
朝7時に起きて、まず顔を洗う。次に水を一杯飲む。
コーヒーを淹れている間に食パンを二枚トースターにかけ、フライパンに生卵を一つ放り込む。固い目玉焼きになるまでの間、曜日ごとに小分けにしてあるサニーレタスにドレッシングをかけておく。
全てできあがったら、ニュースを見ながらそれらを味わい、食べ終わりと同時に食器を洗う。
7時20分。時間通りだ。カレンダーの今日の日付を、赤い正方形で囲む。
――まだ粘れる。
糊付けしてある白いワイシャツに袖を通し、今日の色のネクタイを締め、今日の色のスーツを着る。
頭は脱毛してあるので寝癖など付かないが、髭は伸びる。それを1分でつるつるに剃り、10分かけて念入りに歯を磨く。口臭ケアも忘れずに。
トイレは……うん、今日も快便だ。出し切ったらしっかりと肛門を洗い、拭く。
7時39分。よし。カレンダーの今日の日付を、赤い正方形の上から青い丸で囲む。
――まだだ。まだまだ。
同時刻、回っていた洗濯機が鳴り、停止する。4分で全ての衣類を干し終える。
カバンの中身を確認したら、家の中にひととおり掃除機をかける。トイレ掃除もする。もう一度カバンの中身を確認。忘れ物はない。
7時48分。つつがなく事は進んでいる。カレンダーの日付を、赤い正方形と青い丸の上から黄色い菱形で囲む。
三色の図形で囲まれた日付は、一日も欠けることなく今日まで並んでいる。土曜も、日曜も。何ヶ月も前から。
――だがまだその時ではない。
駅まで7分、ホームまで2分、8号車の前から三番目の乗り口まで1分歩く。
電車が4分遅れで到着する。いつも通りだ。すし詰めの車内に乗り込み、47分間ひたすら我慢する。
いや、我慢しているのはこの時だけでない。生活全てが我慢の時間だ。朝食を食べている時も、排便中も、カレンダーに印を付けている瞬間も、どんな時だって我慢し続けている。いつか来るその時までは我慢しなくてはいけない。
――まだまだ、だ…
電車を降り、改札まで2分、オフィスまで11分、エレベーターホールまで3分歩き9階へ。さらに自分のデスクまで4分歩く。同僚、上司、部下に大きな声で「おはようございます」を言う。眠そうな声でみんながそれに応える。
この後は本格的に我慢の時間。PCを起動するやいなや、さっそく課長から仕事を二つ押し付けられたかと思えば、後輩から質問攻めを受け、向かいの席の同期からは延々と世間話を聞かされる。それらを一つずつ丁寧に処理しながら、自分の仕事を淡々とこなす。いつも通りだ。いつも通りの我慢の時間。
――もう十分なんじゃないか?
おっと、悪魔の囁きだ。これは無視する。
なにせ、まだだ。
まだまだだ。
まだまだまだまだだ。
まだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだまだだ。
まだ俺は我慢できる。
いつか来るその時までは、朝のルーティンを欠かさない。
いつか来るその時までは、きれいな身なりを崩さない。
いつか来るその時までは、真面目で頼れる社会人で居続ける。
いつか来るその時までは、俺は休まない。決して。
何日後、
何週間後、
何ヶ月後、
何年後、
何十年後かの
いつか、
絶対に休んでやる。
生活も仕事も、誰にも無断で休んでやる。
カレンダーを破って、燃やして、道端に捨てて、放置してやる。
積み上げてきたものを全て台無しにしてやる。
得も言われぬ快感と絶望を味わってやる。
これは俺だけのものだ。誰にも渡さない。
だから、まだだ。
0コメント