地元の海

 僕の地元には海がない。ここで言う地元というのは、生まれ育った土地という意味である。僕の地元は岐阜県。海なし県として有名だ。…いや、有名ではないかもしれない。どこ出身なの?と聞かれて、岐阜県、と答えるとだいたい、あー琵琶湖のあるところ、と言われるか(琵琶湖があるのは滋賀県である)、岐阜ってどこだっけ、と言われる。岐阜県の知名度というのはそれぐらいである。

 海のない土地で育ったことから、僕は長い間、地元に海がある人への、一種の憧れと妬みみたいなものを抱いていたように思う。よく映画なんかで、港町で育った高校生男女の、爽やかで甘酸っぱいストーリー描写がある。そういうのを見ていると、無性に腹立たしくなる。だって、海沿いの道を自転車で二人乗りなんかしている高校生なんてファンタジーだもの。あー、俺はそんなことできなかったもんなー、と思う。学生時代に自転車の二人乗りをしたこと自体は、ある。女子と。だから、二人乗りに憧れる人からは、僕自身は憧れられるのかもしれないが、そんなことはどうだっていい。僕は海の近くを二人乗りしたいのだ。

 地元に海がある、ということはそれだけでステータスなのだ。地元、ということに話を移してみると、ここでは生まれ育った土地という意味で話しているが、生きていく中でいろんなところで暮らすということを経験して、最終的に行き着いたところも、地元、と呼んだとしよう。そしてそこが、たとえば湘南だったら、湘南が地元、ということにできるし、地元には海がある、ということにもできるが、それは自分で獲得したステータスであって、生まれ持ったステータスではない。もちろん、自分でステータスを獲得していくのは立派なことだが、そうじゃない、もともと持っていたステータスがどうなのかということが重要なのだ。もともと持っていたステータスが、地元に海がない、ということの、なんと惨めなことか。

 僕の地元には海がない。だから僕は、本当の意味で、地元の海、なんて言えることは、この先死ぬまでないのだ。

本とか

主に読書感想文、たまに思ったこと。

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